マリー・アントワネット
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ルイ17世(ルイ・シャルル)

ルイ・シャルル。父フランス王・ルイ16世、母王妃マリー・アントワネットの次男として1785年3月27日に生まれました。誕生と同時にノルマンディー公の爵位を受けています。波乱に満ちた国王一家の中で、一番悲劇的な結末を迎えたのが、ルイ・シャルルかもしれません。

兄・ルイ・ジョセフ

ルイ16世とマリー・アントワネットの間には、長男ルイ・ジョセフがおりました。王位継承者だったルイ・ジョセフは7歳で満足な治療を受けさせてもらえないまま病没します。

ルイ・ジョセフの教育係りだったボンベル侯爵にマリー・アントワネットは『もし私の息子が普通の息子だったなら、きっと元気になることでしょう。』と言ったのも、身分があるがゆえ、そばに置いておきたい貴族ばかりがいて、理由をつけては静養に出すことを断っていたからです。

ルイ・ジョセフが普通の子供であれば、すぐに医者に見せて治療や静養を行い、病気も回復に向かうのにということが、マリー・アントワネットにも分かっていたのです。ルイ・ジョセフが病没したため、ルイ・シャルルが王太子となります。シャルル4歳の頃でしたが、この直後、フランス革命が勃発することになります。

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4歳でフランス革命が

ルイ17世ルイ・シャルルは、王室の子供として、生まれたときから何不自由なく育ちました。生活をしているところは大きな宮殿で、宮殿1階の子供部屋には大きなテラスもついています。

テラスの先には手入れのされている樹木にきれいな芝生。池には噴水があり、きれいな水をとめどなく溢れさせています。彫刻や花壇が庭園を美しく彩っています。乳母、近侍、部屋つき給仕、案内係り、ゆりかご揺らし係り、用務係り、銀器磨き係り、洗濯女、髪結師など、身の回りの世話をする人間が大勢いました。優雅で快適な生活を送っていたのです。

名門ブルボン家とハプスブルグ家の血を引き、母似のブルーの瞳にブロンドの巻き毛。性格は愛情深くて茶目っ気がありました。そんな優雅で何一つ不自由しない生活が、フランス革命によって奪われてしまうのです。

心優しいシャルル

シャルルはとても心優しい面も持ち合わせていました。自分がされて嬉しかったことを姉にも味合わせてあげたいと、同じことを姉にもしてほしいと、よく要求しました。また、フランス革命が起こり、ヴェルサイユ宮殿からパリに移る馬車に飛びついた女達が、アントワネットに悪態をついた罵声を浴びせると、それまで馬車の後部座席で、両親の間でおびえていたにも関わらず、馬車の窓から顔を出して『ママを許してあげて!』と、母親を案じて叫びました。

父ルイ16世との別れ

タンプル塔に幽閉され、ルイ16世の裁判の判決が出て、運命の朝、『お父さんを殺さないでとお願いするんだ。お願いですから国民に話す邪魔をしないでください』と、シャルルの叫び声が牢獄に響き渡ったのです。幼い子供の言葉とは思えません。

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8歳で少年国王に?

父ルイ16世の刑が執行され、その瞬間、マリー・アントワネットはシャルルの前に跪いてルイ17世の誕生を祝福しました。叔父プロヴァンス伯(ルイ16世の弟、王政復古後のルイ18世)ら、反革命派によって、フランスの新国王とされ、ルイ17世と呼ばれました。しかし、革命中の幽閉された身で、戴冠式などできるわけもなく、シャルル本人も自分が国王と呼ばれていることも、その意味すら分からなかったのです。

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人権宣言の犠牲者

やがてルイ17世は家族と引き離されてしまいます。タンプル塔の3階に靴屋のシモン夫妻が引っ越してきて、ルイ17世の面倒をみることになりました。教養も知識もなく、粗暴で野蛮なこの男が、シャルルを立派な革命家になるように教育していくのです。やがて髪の毛を短く切られ、革命服を着て、大声で革命歌を歌うようになっていきます。目が飛び出るほど殴られ、壁に叩きつけられるからでしょう。そしてシモン夫妻の役目が解かれると、辛い日々が待ち受けていました。

独房に2年間

幼いルイ17世は、光も風も通さない8畳ほどの独房に移されました。父が生きていた頃は家族一緒の時間も持てていましたし、勉強を教えてもらったり、散歩をしたり、幽閉されていても人並みの生活はできていました。

父も母も処刑され、更には叔母エリザベートまで処刑されてしまい、タンプル塔にはルイ17世と姉マリー・テレーズだけになりました。ルイ17世には1日に1度だけ、小さな窓からパンとスープが差し出されるだけでした。そのときに生存確認されるだけで、誰とも話さず、独房からも出られず、孤独な日々に耐え切れずに、1日に1度の食事にも手をつけなくなってしまいます。姉マリー・テレーズは何度も弟の面倒を見させて欲しいと懇願しています。

8ヶ月ぶりに独房の掃除が行われたとき、糞尿と虫、悪臭にまみれたその部屋で、ルイ17世は立つこともできなくなっており、頭と首には大きな腫れ物ができ、肩も曲がってしまい、手首と膝には青くて黄色い腫瘍ができていて、脚は異様に長く、そして激痛を訴えていました。長いことタンプル塔で放置されていた結果です。最もひどい仕打ち、なんたる犯罪だと、診察した医師は驚きを隠せませんでした。

ルイ17世獄死

救いがたい惨状、放置の犠牲者、残忍な仕打ち。と、医師は所見を書きました。すでに手遅れの状態でした。優しく接する医師の治療が始まって3週間。医師とその助手が謎の死を遂げます。

病院長の外科医ペルタンに急ぎの往診依頼がきました。ルイ17世の容態が思わしくありません。全身かさぶたと腫瘍に覆われ、顔と両足はやせ衰え、頭は垂れ下がり、腹部は腫れて慢性な下痢に苦しむシャルルに驚きます。すぐに独房のかんぬきや板切れなどが取り除かれ、よどんだ部屋に、新鮮な空気と光が入り込みました。

6月7日、施しようのない衰弱と失神、深夜には容態が急変。8日、脈が弱くなり、腹部も膨張しているシャルルに、医師は付き添い看護師を要請します。すでにシャルルは激痛にもがいています。意識が朦朧としはじめ、汗を大量にかき、喉の奥でゼイゼイと呼吸をしています。3時頃に呼吸困難に陥り、看守が慌てて抱き上げると、長い長いため息をつき、か弱く灯していた命の火を静かに消しました。ルイ・シャルル、フランス王ルイ17世 10歳でした。

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