マリー・アントワネット
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フェルセン伯爵

マリー・アントワネットを語るときに、フェルセン伯爵は、はずせない人達の中の1人です。ハンス・アクセル・フォン・フェルセン。1755年9月4日、スウェーデンの名門貴族で、王室顧問でもあるフレデリック・アクセル・フォン・フェルセン侯爵の息子です。スウェーデン王グスタフ3世の寵臣でもありました。フェルセンの父、フレデリックはフランスを第二の故郷として愛し、家の中ではフランス語が話されていました。

生涯愛し合った恋人

フェルセン伯爵マリー・アントワネット

フェルセン伯爵と言えば、マリー・アントワネットの愛人と言われていた人物です。2人は精神的な深い部分で結びつき、『愛人』という言葉では表現できない関係だったと思われます。言い方はどうであれ、現在の言葉で言い表すと、不倫でしかないのですが……。

マリー・アントワネットとフェルセン伯爵が出会うのは1774年1月、オペラ座の仮面舞踏会の夜のことでした。家庭教師にとヨーロッパ遊学の旅に出ていたフェルセンは、最期の仕上げにフランスに立ち寄っていたのです。舞踏会で仮面をつけた女性が、優しく手をとってお喋りを始めました。女性が仮面をはずすと、それは誰もが知っているフランスの王妃、マリー・アントワネットでした。

数日後、ヴェルサイユの舞踏会で、2人は再会することになります。2人は年齢も同じで急速に接近しました。マリー・アントワネットは、誰の目から見ても、フェルセンに夢中になっているのは明らかでした。一方フェルセンは慎重でした。王妃に迷惑が、かからなうようにと、フランス遠征軍に加わり、アメリカに渡るのです。

王妃会いたさに

フェルセンは、何度となく舞い込んでくる縁談を断り続けました。『この人のものになりたいと願うただ1人の女性のものになれないのなら、わたしは誰のものになるつもりもない』と、妹への手紙に記しています。

4年間外国で暮らしたフェルセンですが、外国での暮らしに耐えられなくなり、1783年6月、再びパリに戻ってきます。フェルセンの留守中に王太子を出産していたアントワネットは、後継者を生んだということで、安堵してフェルセンとの恋に積極的になったことは想像に固いことです。

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ルイ17世の出生の謎

ルイ17世

フェルセンは1784年6月にもヴェルサイユを再訪していますが、それから9ヵ月後にルイ・シャルル、後のルイ17世を出産しています。シャルルはフェルセンの子供ではないのかという根強い噂があります。ルイ16世も、シャルルが誕生したときに、不可解な言葉を日記に残しています。

『王妃、ノルマンディ公を出産。すべて我が王子と同様に取り扱う。』この言葉をどう解釈しますか? 自分の子供ではないけれど、他の王子と分け隔てなく扱う。そう受け取れないでしょうか。実際、ルイ16世がシャルルのことを『わが子』と呼んだのは、たった1度、断頭台に向う直前のことでした。ルイ・シャルルがわずか10歳で牢獄の中で幼い命を散らせたことを知ったフェルセンは、『あの子はフランスに残してきた最後の、そしてたった一つの心配事だった』と言い残しています。

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恋人の救出に奔走

グスタフ3世

国王一家がパリのテュイルリー宮殿に軟禁されると、他の貴族は亡命下にもかかわらず、フェルセン伯爵もヴェルサイユを引き払って、テュイルリー宮殿の近くに間借りをしています。そしてヴァレンヌ事件のときは、国外脱出の手引きをします。綿密な計画を立てたにもかかわらず、数多くの手違いや国王一家の危機感のなさで、この逃亡は失敗に終わり、再び国王一家はパリに連れ戻されます。

再びテュイルリー宮殿に幽閉された国王一家のもとを、変装をして訪れたフェルセン伯爵は、再び亡命計画を進言しますが、国王はパリに留まることを決意します。その後タンプル塔に移送された国王一家の救出に奔走しますが、どれも失敗に終わってしまいます。革命が激しくなると、フェルセン伯爵はブリュッセルに亡命しますが、ここでもグスタフ3世や、オーストリア駐仏大使と救出のために奔走しています。

やがてグスタフ3世が命を奪われ、スウェーデンはフランス革命から手を引いて、政治的にフェルセンは失脚します。革命政府によってマリー・アントワネットに刑が下され、実行されたことを知ったフェルセン伯爵は、嘆き悲しみ、愛想のない暗い人間になってしまいました。救い出せなかった後悔の念に支配されて生きていくことになります。

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無残な最期

グスタフ4世カール13世

マリー・アントワネットなきあと、フェルセン伯爵は多くの女性と関係を持ちますが、『あの方の代わりにはならない』と書き残しています。スウェーデンでグスタフ4世が親政を始めると、フェルセン伯爵も復権し、栄達の道を進み、元師にまで出世します。しかしフェルセンの中の絶望感は消えることなく、フランス民衆を憎むようになっていて、更には自国の民衆への不信を抱くようになります。その結果、強圧的な振る舞いが目につくようになり、それがまた、民衆から反感を買うことにもなりました。

1809年、グスタフ4世は失脚し、新しくカール13世が王になりました。カール13世には世継ぎがなかったために、アウグステンブルグ家のクリスチャン・アウグストが王太子として指名されましたが、1810年に王太子がなくなりました。当時のスウェーデンは、フランス革命の余波で、政治的危機に面していました。そこで、王太子の死は、王位を狙った事件であると囁かれ、その首謀者がフェルセン伯爵だと噂されたのです。

カール13世に葬儀執行を命じられたフェルセンは、ストックホルムの広場で葬儀を行うために馬車で現れたところ、激昂した民衆に襲われて必死に剣で抵抗するも、最後には殴り殺されてしまいます。その衣服や勲章は剥ぎ取られ、誰かも分からないほどに痛めつけられ、全裸で側溝に投げ捨てられました。現場にいた近衛連帯の司令官と兵士は、誰も民衆の暴動を制止しようとはしなかったそうです。

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