マリー・アントワネット
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マリー・テレーズ

マリー・テレーズ・シャルロット。ルイ16世とマリー・アントワネットの長子、第一王女として1778年12月19日に誕生しました。マリー・テレーズとは、母方の祖母である、マリア・テレジアのフランス読みです。幼い頃からブルボン家、ハプスブルグ家の血を引いていることに誇りを持ち、プライドの高い性格をしていました。

悲劇を見届けた王女

マリー・テレーズフランス革命の中、国王一家の中で、唯一生き残って全てを見届けた王女です。フランス革命が始まったのは、マリー・テレーズがまだ10歳の頃でした。

優雅で不自由のない生活から、革命が起こったことによって想像もしていなかったような生活を送ることになりました。タンプル塔に移され、監視は厳しかったのですが、家族と過ごすこともできました。本を読んだり散歩をしたり、編み物や刺繍もできました。

父がいなくなってからは、母であるマリー・アントワネットは嘆き悲しみ、更にはコンシェルジュリーに移されてしまいます。弟ルイ・シャルルも引き離されて靴屋のシモンのもとへ行き、マリー・テレーズは1人ぼっちになってしまいました。父が処刑されたことは知っていても、離された母マリー・アントワネット、弟ルイ・シャルル、叔母エリザベトが、もうすでにこの世にいないということすら、マリー・テレーズは知らずにいたのです。

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3年2ヶ月の幽閉

1795年12月19日、マリー・テレーズは3年2ヶ月ぶりにタンプル塔から出ることになります。オーストリアの捕虜として捕らえられていた要人5人と引き換えに、解放されることになったのです。『マリー・テレーズは世界で一番不幸な人です。母親についての情報を手に入れることができず、ましてや一緒になることはできません』そう、牢獄の壁に、縫い針やハサミの先を使って彫りこまれていました。

マリー・アントワネットの運命を聞かされると、『神様、私の両親を死なせた人たちをお許しください』と彫り残しました。1796年1月、長い牢獄生活にピリオドを打ち、テレーズはオーストリアの首都、ウィーンにある宮殿で皇帝に迎えられました。

母マリー・アントワネットの実家に戻ったのです。しかし、マリー・テレーズは、オーストリアの宮殿に対して、母を救ってくれなかったと良い感情は持っていませんでした。マリー・テレーズ17歳の頃のことです。

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アングレーム公爵との結婚

ルイ18世マリー・テレーズアングレーム公爵

ロシアに亡命していた後のルイ18世(ルイ16世の弟)、プロヴァンス伯爵は、後のシャルル10世(ルイ16世の弟)、アルトワ伯爵の息子、アングレーム公爵とマリー・テレーズの結婚を考えます。王政復古が成立したとき、一緒にマリー・テレーズもフランスに戻ると、自分のイメージアップにつながると考えたのです。

1799年5月4日にウィーンを発ち、プロヴァンス伯爵のいるミタウに着いたテレーズは、6月10日にアングレーム公爵と結婚をしました。夫となったアングレーム公爵は、勇気と思いやりがあり、信仰深くて正直者、戦いの合間に負傷兵を見舞うなどの心遣いもでき、部下からの人望も厚い、非の打ち所のない人物でした。

しかし、彼は自分の容姿にかなりの劣等感を持っていて、背が低くて視力が弱いことを気にしていましたし、顔の筋肉が勝手に痙攣して、話すと言葉に詰まってしまうのが悩みでした。なによりも決定的なのは、性的不能者だったのです。結婚しても、マリー・テレーズは子供をもうけることができませんでした。

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人生の大半が亡命生活

結婚が亡命先から始まり、ナポレオンの出現によって、フランスに戻ったり、再び亡命の旅に出たりと、幼い頃から結婚後も、亡命生活を余儀なくされました。人数も80人以上と言う大所帯の亡命でお金もかかり、テレーズの宝石を売って生活費にあてていました。

ナポレオン失脚後は王政復古してプロヴァンス伯爵がルイ18世として即位し、テレーズもフランスに戻ります。その後、ルイ18世の弟、アルトワ伯爵がシャルル10世として即位したので、テレーズは王太子妃となります。シャルル10世の治世は、絶対王政だったために、国民の反感をかい、再び革命が起こります。世に言う七月革命です。

再び亡命生活がはじまるのですが、最終的には現在のイタリアのゴリツィアであるゴーリッツに落ち着き、シャルル10世は1836年に、夫アングレーム公爵は1844年になくなり、それ以後のテレーズは引き篭もってしまうのですが、1851年10月19日、ブルボン朝最後の王太子妃であったマリー・テレーズもまた、この地に眠ることになるのです。72歳でした。

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