マリー・アントワネット
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マリア・テレジア

マリー・アントワネットの母、マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ。1717年5月13日、ハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝カール6世と、皇后エリザベート・クリスティーネの長女として誕生しました。ヨルダンの川で洗礼を受けたり、マリアツェル教会に、黄金の子供の像を奉納したりと、両親はとてもマリア・テレジアの誕生を喜びました。

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当時では珍しい恋愛結婚

マリア・テレジアフランツ1世

母親譲りの美しい容姿をしていたマリア・テレジアは、市民からの人気も高いものでした。1722年からウィーンに留学できていたロートリンゲン公子フランツ・シュテファンに恋をしてしまいます。

夜は夢に見、昼は女官達に愛しいフランツ・シュテファンのことを話していました。テレジアにはプロイセンのフリードリヒ(のちの大王)との結婚案が持ち上がりました。当時としては、政略結婚が当たり前でしたので、特別なことではありませんでした。しかし、テレジアの父、カール6世も、娘が恋焦がれているフランツのことを気に入っていて、当時の王族としては奇跡とも言える、恋愛結婚をします。

婚礼は1736年2月12日に執り行われました。フランツはこの結婚のために、自分が所有するロートリンゲン公国を手放さなければいけませんでしたが、夫婦生活はとても円満でした。結婚式の4日前にテレジアがフランツに宛てた手紙が、現在でも残されています。

ラテン語、フランス語、様々な国の言語で書かれ、テレジアの教養の深さが垣間見ることができます。時折フランツは女性と浮名を流すこともありましたが、自分が政治家として多忙であることもあり、全て把握したうえで、目をつむっていました。フランツがなくなったときは、自分の命が尽きるまで、喪服を身にまとって、他の衣裳は身につけませんでした。

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オーストリアの女帝

カール6世

マリア・テレジアは、マリー・アントワネットの母である前に、オーストリアの女帝として有名です。ハプスブルグ家は男系相続を定めていましたが、テレジアの兄が夭折してからはカール6世に男児がいなかったので、テレジアが次期後継者と目されました。

カール6世は国事勅書で、国内外に、マリア・テレジアのオーストリア、ボヘミア、モラヴィア、ハンガリーなどの、ハプスブルグ家世襲領の相続を認めさせました。女が皇帝になることはできなかったために、帝位はテレジアの夫であるロートリンゲン公フランツ・シュテファンが就くことになりましたが、男児の孫を期待して、カール6世はテレジアに政治家としての教育はしませんでした。

しかし彼女がオーストリア系ハプスブルグ家最後の君主であることには変りはなく、テレジアの子供の代からは、『ハプスブルググ=ロートリンゲン家』と複合姓になって、ハプスブルグの姓を残していきます。

女帝と呼ばれたわけ

シェーンブルン宮殿

周囲から女帝と呼ばれ、実際も女帝そのものでしたが、皇帝に即位したわけではありません。帝位は夫のフランツのものでしたが、ハプスブルグ家の領国と家督を相続したのはテレジアであり、オーストリア大公はテレジアであったこと、夫フランツは小さな国出身の養子的な存在であり、政治的権力をほとんど持っていなかったことなどが挙げられます。

実際、彼女の肖像画には、申請ローマ皇帝の帝冠が添えられていることが多く、申請ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの皇后でしかないテレジアは、実際には夫よりも権力を持っていたということになります。そのお陰で、フランツは何度もみじめな思いをしましたが、財政家としては天才肌で、オーストリアが国債の発行に踏み切るとき、保証人になれるほどの莫大な財産を築いています。

自然科学にも興味があり、シェーンブルン宮殿の一角には、植物園や動物園が作られ、昆虫や鉱石を分類したコレクションは現在でも残されています。

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マリー・アントワネットは末娘

マリア・テレジアと家族たち

テレジアの父、カール6世は男児がいなく、後継者問題に頭を悩ませていたのを見てきたため、自分はできる限り子供を産もうと考えていました。結果、5男11女に恵まれます。夭折された数人を除くと、その殆どの娘達は、政略結婚のために外国の妃となっています。マリー・アントワネットもその1人で、テレジアの11女になります。

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